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今年の干支は「うし」。そろそろ年賀状の図柄をお考えの方もいらっしゃいますね。年末年始の年賀状には「なぜ出すの?」「どうして干支を使うの?」など不思議がいっぱい! 年賀状に関するギモンや、失礼のない書き方を順次公開します。まずは「お年玉つき年賀はがき誕生秘話」から!
お年玉付き年賀はがき誕生秘話
年賀状といえば、今みなさまが使っている「お年玉つき年賀はがき」。このはがきが、いつどのようなキッカケで誕生したのか、今ではもう知る人も少なくなっています。
京都の年賀状蒐集家であった井上女神氏は、その著書の中で、発案者である林氏にインタビューをし、そのときのことを詳しく掲載しています。
発案者は京都の林 正治氏である。
「昭和二十四年六月二十一日の夜明け、ふと浮かんだアイデアがこのハガキでした。その時代はドッジラインとか、竹の子生活とかいう言葉が流行して、その日を暮らしていた。 耐乏生活の最中でした。その頃の新聞やラジオのニュースでは、下山国鉄総裁怪死時件や三鷹事件など、相次ぐ社会不安の中でした。 これらの人達が終戦後、散り散りばらばらになったまま音信不通。ラジオの尋ね人の放送が長い時間毎日、肉親や友人や知人を捜している。 お互いの無事を確かめ合い、励まし合うことが出来たら。そんな方法は?そうだ!それには年賀状が一番良い。それにお年玉を付けたら、 もらった相手は懐かしさに加えて心が和むのでは………。そんな想いがスーッと頭の中をかすめていった。 私は絵が好きだから(チャーチル会々員)、早速、賀状の図柄をニ、三ばかり作り、伝を頼って、時の小沢郵政大臣にお会いしょうと、東上しました。 郵政省内でも賛否両論に分かれましたが、特に大野次官が大乗り気で、やろう、という事になり、国会承認(法律改正が必要なので)を経て、 その年の十二月一日に一億五千万枚売り出されました。 当時一般の給料が七、八千円でした。普通の官製はがきが二円で、お年玉はがきはプラス一円、果たして売れるかどうか心配でしたが、案ずるより生むが易しの諺通り、 仲々の好評で、大いに感謝され、ほうびに郵政審議会専門委員という肩書きまでもらいました。 ところが翌年は二倍以上の四億枚も印刷したので、かなり売れ残り、私も責任上、自分で車を運転して街を走り回って、三、四万枚ほど売りました。 これが戦後の復興の原動力となって、日本人の心に明るい灯を投げかける事を期待しての私のささやかな祈る気持ちでありました」と、林さんはお話し下さった。
「ねんがじょう曼荼羅」より
また林氏は、井上氏に当てた昭和五十六年十一月の書簡の中で、お年玉つき年賀はがきが飛ぶように売れて、発案者である自分が郵便局に頼んでも手に入らず、 仕方なく私製はがきで賀状を書いている旨の文章があり、当時をなつかしくしのぶことができます。
平成19年から始まった「地域指定」の年賀状配達サービスをご存知ですか
「年賀タウンメール」という新しいサービスをご存知ですか。通常のはがきは、宛先に「住所」「氏名」を記入して個別に配達してもらいますよね。しかし「年賀タウンメール」は少し違います。宛先には「○○町の皆様へ」と記入するだけ。個別の宛名は記入しません。それだけで、その町内の家庭や事務所に年賀状が届きます。 このサービスは12月15日から24日まで全国の集配郵便局で受付され、元日に年賀状の配達のある家庭や事務所に一緒に配達されます。地域の皆様すべてに年賀状を届けられるサービスがスタートしたことで、年賀状の送り方が一つ増えました。
これは、地域密着型の小売店などを想定したサービスですが、はがきの内容によってはおめでたくない年賀状になってしまうかもしれません。読んだ方に喜ばれる内容の年賀状であってほしいですね。
年賀郵便の歴史
明治4年3月に郵便制度が始められた当時は、年賀状はまだありませんでした。明治6年12月に「郵便はがき」が発行されてからは、年賀の手紙に変わって手軽な「はがき」を使うようになりました。
つまり最も古い年賀はがきは明治7年元旦付けなのですが、現在見つかっている最も古い年賀はがきは明治9年のもののようです。
新年のあいさつは大昔は宮中のみで行われていたようで、一般へ風習が広まったのは江戸時代に入ってからです。お世話になった隣近所へ、羽織はかまの正装で、三が日中に一軒一軒まわっていようです。
明治時代になると名刺を持って新年のあいさつに回るようになり、年賀を受ける側は玄関に三方(さんぽう)を置き、これに名刺を受けていました。この風習は昭和の初めまで続きました。
新年のあいさつを年賀はがきで行うようになってからは、年末の郵便局の忙しさは大変なもので、これを解消し元旦にきちんと届けられるようにと、明治32年に年賀郵便特別取り扱いの制度が設けられました。
昔の年賀状の書き方とは
現在一般に多く使われている賀詞、「謹賀新年」のあいさつは、明治中ごろから使われ始めました。それまでは「改暦新年」が多く、その次に多く使われていたのが「恭賀新年」「新春」だったようです。 また、差出人に家族みんなの名前を書いたり、夫婦の名前を並べて書くようになったのは戦後になってからで、それまでは一家の主人の名前だけを書いていました。
その頃には、主人の名前が大きく書かれ、次に奥さん、子供というように段々と文字が小さくなっていました。いかにも昔の日本人らしい表現です。
明治時代の年賀状
明治7年頃の端書(はがき)は現在の葉書きと違い、縦長で二つ折りのものでした。葉書きとなったのは昭和になってからで、最近では「はがき」と表現することがほとんどです。
明治から昭和のはじめにかけての葉書きには「郵便はかき」と表記されており、濁音はありませんでした。また最初の端書は、市内が半銭で黄色をしており、市外は壱銭で青色をしていました。明治9年に出された年賀状が、京都から東京まで3日で配達されている記録も残っています。
「謹賀新年」とは
広辞苑によると、「慎んで喜びを申しあげること」とあります。江戸時代から明治時代にかけては改歴、改年、新年の「御慶めでたく申し納め候」が普通に使われていました。「謹賀」は中国の宮廷用語で、これに新年を結びつけることで一般に使われるようになりました。
日本で使われ始めたのは明治17~18年頃で、その他は「御慶」「恭賀」「敬賀」「奉賀」「謹奉」や、それぞれの下に「新年」が入るなど、さまざまな表現が使われていました。「明けましてお芽出度う御座居ます」は、明治から現在まで使われていますが、一般には女性の使う言葉で男性の場合は「お芽出とう」だけでよいとされていました。明治から現在まで、一番多く使われている表現が「謹賀新年」なのです。
欠礼と服喪期間
師走になると、「喪中につき年末年始の御挨拶をご遠慮申し上げます」といったお便りが届きます。 実は服喪期間は武家の服忌制によるものと考えられています。明治7年の太政官布告第180号「服忌令」によれば、父が亡くなったとき子は13ヶ月、妻は150日、孫は30日間喪に服すことになっています。しかし現在では、子供であれ誰であれ、身内に不幸があれば欠礼される方が多いようです。中には年賀状だけ欠礼して、忘年会には出席するなどの方もいるようです。
干支と還暦
一般的に「干支」といえば「十二支」と思われがちですが、実は干支「十干十二支」からきています。
十干とは陽の十干「甲、丙、戊、庚、壬」と、陰の十干「乙、丁、己、辛、癸」があります。各十二支は陰陽のいずれかの十干と組み合わせて考えられます。例えば「丑(うし)」は陰の十干なので、「乙子、丁子、己子、辛子、癸子」の5通りがあります。つまり、十干十二支の組み合わせは全部で60通りあり、これらを全て一周することを「還暦」といいます。ちなみに2009年は「己丑(つちのとうし)」となります。


